自分で責任を取る自分の人生に、
無責任に干渉しようとしてこようとするならば、
それがどんな著名な専門家であったとしても、
自分の運のために、距離を置いて吉。


自分で責任を取ることのできない、
保護者や支援者ありきの道ならば、
その人達の手出しや口出しは、
干渉とは異なるものなので、耳を傾けて吉。


それらから解放されたいならば、
自分で責任を取ることができる分野を増やし、
少しずつ自立の道へと軌道修正をする必要あり。


ただし、例え十分に自立していたとしても、
責任を持って協力・支援してくれる方達の意見は、
例え無名な素人でも重視して吉。


言葉には、その情報の質の良し悪しや、
情報量の多少とは別に、重さあり。


責任が宿る言葉には重さが生じます。
重い言葉に価値あり。


つまり。


言葉の運には質と量以外にも、重さあり。


重さは、主に発する言葉に対して持つ、
発信者の責任や信用で決まるものとします。


どれほどの権威や能力や実績があろうとも、
責任・信用に欠ける言葉に身を委ねるのはリスク。


学歴も資格も専門知識もない人の言葉でも、


『自分も責任を分かち合う』
『他人事ではなく自分事』
『口だけでなく手も足も出す』


という気概や意志が込められているならば、
その重みは一気に増して運に影響します。


要するに。


誤解を恐れず分かりやすく大げさに表現すると。


『一蓮托生の身内の助言は無視しちゃダメ』
『テレビのコメンテーターより親の言葉に価値あり』
『血の繋がらない他人であったとしても重い言葉は信じて吉』


となります。


そう考えると。


情報が溢れる現代においては、


『新聞に書かれていることは正しいかどうか?』
『ネットで書かれているどの意見が本物か?』
『組織の方針に意図的な嘘がないか?』


というリテラシーや批判精神と同じくらい、


『その言葉は、重いか軽いか?』


という見方が、運のためには必要です。


というか、運の世界では特に、
重さを確認した方が無難です。


それでは☆