昨年、五黄土気の年の課題として、
お墓やお仏壇に関する小冊子を製作しました。
いつかはあなたも先祖になる ー弔いと供養の基礎知識ー
・お墓の造り方(墓石の選び方など)
・お墓の守り方(お墓参りの仕方や修理の仕方など)
・お墓の移し方(改葬と呼ばれる墓石の移転など)
・供養の継承(永代供養など)
・お仏壇の選び方や設置場所
・ペットの弔い(動物の埋葬や墓相など)
などを、全8章に分けてご紹介しているのですが、
その前提となる『はじめに』にて、お伝えしていることがあります。
一部抜粋してみると。
▽ここから▽
ご先祖様と向き合うのは、他の誰のためでもなく、
自分自身の運命・運勢のためになること。
残された家族・親戚が、
一族の家運を守るために維持管理するのが、
お墓であり、お仏壇。
△ここまで△
上記はあくまで、運の知識から言っていることで、
宗教の戒律や、地域の仕来り、
または民族的な文化によっては、
異なる意見も当然あると思います。
『供養とは、ご先祖様のためにやること』
『供養を頑張らないと、ご先祖様が怒る』
『供養をしないと、神仏の祟りがある』
という話、僕は聞いたことがありませんが、
そう考える人がいても、おかしくないと思います。
けれど、運においては、あくまで、
自分自身の運のために行うのを供養とします。
だから。
『お墓参り?めんどくせーからいいや』
『年忌法要?金がないから、しない方向で』
『仏壇?インテリアの邪魔になるし、要らない』
というのは、僕にとって、違和感があります。
自分にとってメリットのある、
ある意味、利己的な供養という機会を、
・面倒
・お金の無駄
・邪魔
という理由で省略するのは、いまいち良く分かりません。
それが他人のためになるボランティアであるならば、
『いやあ、うちにはそんな余裕はなくて』
『それよりまず、自分のことが先だから』
『忙しくって、そこまで手が回らない』
という意見にも、すごく共感できるのです。
自分以外の誰かのために頑張るのには限界があります。
他人のために割くお金と時間と労力は限られています。
けれど、供養とは、そういうものではありません。
お彼岸にお墓参りに行くのは、義務ではなく権利です。
自分の権利だから、もちろん手放すこともできるのですが、
そうすることで、失うメリットがあります。
僕は4人の祖父母以外に、自分の先祖にあったことがありません。
おかげさまで、4人とも、面白く個性的な良い人達でしたが、
仮に僕の知らないその他のご先祖様が、
人間のクズのような尊敬しがたい存在であったとしても、
僕は僕のために、手を合わせます。
それは、
『自分の存在があるのは、ご先祖様のおかげさま、感謝』
『仏になってしまえば、過去の悪行、許します』
『例えどんな先祖でも、全ては尊敬すべき仏様』
なんて、立派なものではありません。
お彼岸だからお墓で手を合わせる。
お盆だからお仏壇に手を合わせる。
お正月だからまずご先祖様に挨拶する。
そうすると、運が良くなるから。
ただそれだけの、シンプルな習慣です。
どうしようもなくて縁を切った、
クズのような先祖であったとしても、
名も知らない他人のような先祖であったとしても、
時がくれば、花を供え、お線香をあげ、手を合わせる。
無理に許す必要や、感謝する必要なし。
『そんな供養までしてやるような義理はない』
とか言って突っ張るのはお門違い。
ただ、自分や、自分の家族や、
自分に続く後の一族のメリットのために、
淡々と向き合い続けていくのが、供養の本質。
その感覚は、世間の常識や様々な宗教観とは異なるかもしれません。
僕は運に関することしか語れないので、
そのことを、非常識で戒律に反することだと言われたら、
仰る通りとしか言えません。
だから、
『供養とは、自分のため』
ということを、常識や宗教としてご提案するつもりはありません。
あくまで、運を良くするための手段として、
先祖供養という継続する営み、大切だと思います。
全ての人には、それをする権利がある。
仕方なくではなく、チャンスとして、
前向きに続ける理由、そこに見出せます。
それでは☆
お墓やお仏壇に関する小冊子を製作しました。
いつかはあなたも先祖になる ー弔いと供養の基礎知識ー
・お墓の造り方(墓石の選び方など)
・お墓の守り方(お墓参りの仕方や修理の仕方など)
・お墓の移し方(改葬と呼ばれる墓石の移転など)
・供養の継承(永代供養など)
・お仏壇の選び方や設置場所
・ペットの弔い(動物の埋葬や墓相など)
などを、全8章に分けてご紹介しているのですが、
その前提となる『はじめに』にて、お伝えしていることがあります。
一部抜粋してみると。
▽ここから▽
ご先祖様と向き合うのは、他の誰のためでもなく、
自分自身の運命・運勢のためになること。
残された家族・親戚が、
一族の家運を守るために維持管理するのが、
お墓であり、お仏壇。
△ここまで△
上記はあくまで、運の知識から言っていることで、
宗教の戒律や、地域の仕来り、
または民族的な文化によっては、
異なる意見も当然あると思います。
『供養とは、ご先祖様のためにやること』
『供養を頑張らないと、ご先祖様が怒る』
『供養をしないと、神仏の祟りがある』
という話、僕は聞いたことがありませんが、
そう考える人がいても、おかしくないと思います。
けれど、運においては、あくまで、
自分自身の運のために行うのを供養とします。
だから。
『お墓参り?めんどくせーからいいや』
『年忌法要?金がないから、しない方向で』
『仏壇?インテリアの邪魔になるし、要らない』
というのは、僕にとって、違和感があります。
自分にとってメリットのある、
ある意味、利己的な供養という機会を、
・面倒
・お金の無駄
・邪魔
という理由で省略するのは、いまいち良く分かりません。
それが他人のためになるボランティアであるならば、
『いやあ、うちにはそんな余裕はなくて』
『それよりまず、自分のことが先だから』
『忙しくって、そこまで手が回らない』
という意見にも、すごく共感できるのです。
自分以外の誰かのために頑張るのには限界があります。
他人のために割くお金と時間と労力は限られています。
けれど、供養とは、そういうものではありません。
お彼岸にお墓参りに行くのは、義務ではなく権利です。
自分の権利だから、もちろん手放すこともできるのですが、
そうすることで、失うメリットがあります。
僕は4人の祖父母以外に、自分の先祖にあったことがありません。
おかげさまで、4人とも、面白く個性的な良い人達でしたが、
仮に僕の知らないその他のご先祖様が、
人間のクズのような尊敬しがたい存在であったとしても、
僕は僕のために、手を合わせます。
それは、
『自分の存在があるのは、ご先祖様のおかげさま、感謝』
『仏になってしまえば、過去の悪行、許します』
『例えどんな先祖でも、全ては尊敬すべき仏様』
なんて、立派なものではありません。
お彼岸だからお墓で手を合わせる。
お盆だからお仏壇に手を合わせる。
お正月だからまずご先祖様に挨拶する。
そうすると、運が良くなるから。
ただそれだけの、シンプルな習慣です。
どうしようもなくて縁を切った、
クズのような先祖であったとしても、
名も知らない他人のような先祖であったとしても、
時がくれば、花を供え、お線香をあげ、手を合わせる。
無理に許す必要や、感謝する必要なし。
『そんな供養までしてやるような義理はない』
とか言って突っ張るのはお門違い。
ただ、自分や、自分の家族や、
自分に続く後の一族のメリットのために、
淡々と向き合い続けていくのが、供養の本質。
その感覚は、世間の常識や様々な宗教観とは異なるかもしれません。
僕は運に関することしか語れないので、
そのことを、非常識で戒律に反することだと言われたら、
仰る通りとしか言えません。
だから、
『供養とは、自分のため』
ということを、常識や宗教としてご提案するつもりはありません。
あくまで、運を良くするための手段として、
先祖供養という継続する営み、大切だと思います。
全ての人には、それをする権利がある。
仕方なくではなく、チャンスとして、
前向きに続ける理由、そこに見出せます。
それでは☆
コメント
コメント一覧
自分の血縁をさしますか?
たとえば嫁ぎ先や養子に行った先などの
直接的には繋がらないけれど縁がありそうな人達も含みますか?
pさん
> この場合の供養する相手としての”先祖”というのは
> 自分の血縁をさしますか?
血縁“も”さします。
血縁“のみ”という意味ではないです。
> たとえば嫁ぎ先や養子に行った先などの
> 直接的には繋がらないけれど縁がありそうな人達も含みますか?
はい。
血の繋がりは、大切だけれど、絶対条件ではありません。
血は繋がらずとも、手を合わせるべき対象は、
案外多いのではないかと思います。
とは言え、個人的には『先祖個人個人』というより、
『ご先祖様、という存在(集合体)』のような感覚の方が、
強いような気はします。