自分の好きを、他人の好きにしよう、させようと頑張り、
説明・説得し押し付けるのは、典型的なトラブルの原因。


他人の好きを認められず批判することもまた、同じように、良縁を遠ざける罠。


当人が好きって言ってるんだから、そこには正解も不正解もなく、
既に話は丸く収まってるのに、自分がそれじゃ納得できないから、
グイッと力技で何とかしたくなって、縁が乱れる。


九気学を軸に考えると、『好き』という価値観には常に、何らかの欠けが伴います。


その欠けは、人それぞれ異なり、自分以外の誰かと、
ピッタリ一致することは、ないものとします。


限りなく相似し、似ている誰かを見つけることは可能。


でも、自分と全く同じ『好き』を持つ人間を見つけることは、
奇跡を凌駕した、特別な偶然の必然が必要となる。


だから、自分と同じではないことを理由に、
縁の良し悪しをジャッジしようともがいてしまうと、
自分も他人も傷つけ、大切な縁にさえ斬りつけてしまうことになる。


これは裏を返せば。


他人の『好き』を受け入れ認めることができれば、
身の回りにいる、半分くらいの人とは、友達になれるのではないかと思います。


この世界には様々な価値観を持つ人がいるので、
その全てを容認するのは、さすがに現実的ではなく、難しいはずです。


また、猟奇的で変質的で非常識な『好き』の持ち主とまで、
無理に仲良くなる必要はないでしょう。


だから、運を軸に考えた場合、人類みな兄弟、というような博愛精神は、
良縁を求める上で、不必要とします。


問題なのは。


自分とは異なる『好き』を持つ人を、悪縁認定してしまう自分の反応です。


自分とは異なる趣味の衣服を着ている人を見た瞬間、


『あいつ、ダセーな』


と、つい感じてしまう反応。


自分とは異なるスタイルで仕事をする人を見た瞬間、


『なにそれ、間違ってる』


と、つい判断してしまう反応。


本当の良縁に辿り着くためには、無意識に浮かんでしまう反応を、
理性で乗り越える必要があると思います。


僕達は、基本的に欲深い、雑多な感情を抱えた生き物なので、
よほどの経験や、特別な修行を積まない限り、


『全ては“空(くう)”なり』


という悟りの境地で、あらゆるものに接するなんてこと、不可能です。


でも、幸運や良縁というメリットを求め、欲する自分のため、利己的に、
自分とは異なる価値観を持つ人への反応を制御することは、できるはず。


優秀な営業担当や、愛し合う夫婦・恋人、
温かい家庭や、仲の良い仲間達は、
それを既に、当たり前のように実践していると考えられます。


高次元の仙人や徳の高い高僧としてではなく、
欲を抱えて軽やかに生きる俗世の1人として、
『好き』の取り扱いは、とても大切な課題だと思います。


それでは☆