『感謝が大事』
『おかげさまの心で』
『ありがとうの想いを伝える』
どれも、確かに必要なことだとは、分かります。
どこかで見た誰かの格言にも良く出てくるフレーズです。
小さなことにも感謝を忘れず、
誰に対してもおかげさまの気持ちを持ち、
素直な心からありがとうを伝える。
間違いなく、素敵です。
感謝とは、改めて辞書を引いて見ると、
だそうです。
どれを取っても、人として、常に大事。
社会に含まれる一員には、みんなに求められる前提。
群れの中で生きる術とまで言っても良いと思います。
感謝を運という観点から考えると、六白金気に分類されます。
一般的なイメージとは少し異なる、
運に影響する感謝(六白金気)とは何なのかを以下に。
例えば。
全部自分一人でやったと思えば、
神様以外に感謝する相手は見つからないでしょう。
自分一人でできたことなんて何一つないと思えば、
周囲の全てが感謝の対象になって。
そういう前提でいくと、
全部完全に1人で成し得たことには感謝は要らず、
自分以外の何かの力の支えを受けた時に、必要になってくる。
ところが。
自分一人で成立することなんて案外少ないもので。
『誰の世話にもなっちゃいない』
と自分では思っていても、実は、何かしら、
誰かしらの関係性が、必ずどこかにあって。
『自分で稼いだ金を、自分のためだけに使って何が悪い』
と思ったら、感謝はなかなかできないけれど、
『いや、あなたがそうやって稼ぐためには、
直接稼ぎにはならない所でサポートしてくれる、
間接的な誰かがいるのでは?』
そこに気付けて初めて、感謝の対象が見つかって。
『事務だの経理だのは、利益生み出さないんだから、営業に口出しすんな』
と思ったら、なかなかそこでは感謝の関係が生まれなくて。
『あなたが営業に専念するために、
誰が事務処理や会計業務をしているのですか?
それとも、あなたが営業も事務も会計も、
全て1人でこなしていけてるのですか?』
そこをしっかり見つめ直せるかどうかが問題で。
個人的な例え話で言えば。
僕は、料理を作るのが、昔から好きです。
好みのメニューを自分で作って美味しく頂くのは、
僕にとって最上級の嬉しさであり幸運で。
でも。
僕は、自分のために料理を作ることができません。
『あ、今日は1人の食事だ』
となると、カップラーメンやコンビニ弁当、外食で済ませてしまいます。
ひどい時には、
『面倒くさいから、昼飯は別にいいや』
ってなっちゃいます。
どういうことかというと、これはあくまで僕の場合ですが、
食べてくれる家族や仲間がいてこそ、食事を作ることができます。
『僕がみなさまのために食事を作らせて頂いています、感謝』
とまで、へりくだることはありません。
そこまで立派な出来た人間ではないし。
でも、やっぱり、作る度に感じるのです。
『ああ、美味しく食べてくれる人がいるから、俺ぁ料理が作れるんだなあ』
つって。
要するに何が言いたいのかと言うと。
自分に関わる支えや保護や土台となる環境の存在と、その本当の価値に、
気付けるかどうか、というのが、運という意味での感謝だと思うのです。
慌ただしい日常や業務やなれ合いに埋没し、
“当たり前の当然の言うまでもないこと”として薄れてしまった、
『いや、それ当たり前でも当然の権利でも生まれながらのメリットでもなんでも無いよね』
という、自分にとっての協力者や、与えられた役職や、属している環境に、
フラットな姿勢で向き合って、確かにそういう存在が、自分には、ある、
と再認識する作業こそが、『感謝』ってやつになると思うのです。
『立派な人になるために、ありがとうって、言いなさい』
という、道徳教育的な意味合いとは一線を画する、
もっとビジネススタイルやライフスタイルに直接的に繋がる運の視点として、
『感謝』というキーワードの意味を、見つめ直せると、
今までと同じ自分でも、一回り運が大きくなります。
それが感謝の効能です。
僕達は、今この場所にいる以上、
全てとの関係性を断ち切って生きることはできません。
頼んだつもりはなくても誰かと関わってしまい、
どうあがいても何かしらのおかげさまに巻き込まれることになる。
僕は、どちらかと言えば独善的で、少ない味方以外は全部敵で、
誰かに恩着せがましく何かを言われることが、とても嫌いなタイプです。
にも関わらず、する必要性と必然性が確かにある。
一回り運の大きな自分になるために。
それが感謝というやつなのだと思います。
それでは☆
★質問専用エントリー5
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記事本文とは関係のないご質問であっても、
こちらにコメントいただければご返信いたします☆
『おかげさまの心で』
『ありがとうの想いを伝える』
どれも、確かに必要なことだとは、分かります。
どこかで見た誰かの格言にも良く出てくるフレーズです。
小さなことにも感謝を忘れず、
誰に対してもおかげさまの気持ちを持ち、
素直な心からありがとうを伝える。
間違いなく、素敵です。
感謝とは、改めて辞書を引いて見ると、
ありがたいと感じる心。
また、その思いを表現すること。
恩に報いること。
だそうです。
どれを取っても、人として、常に大事。
社会に含まれる一員には、みんなに求められる前提。
群れの中で生きる術とまで言っても良いと思います。
感謝を運という観点から考えると、六白金気に分類されます。
一般的なイメージとは少し異なる、
運に影響する感謝(六白金気)とは何なのかを以下に。
例えば。
全部自分一人でやったと思えば、
神様以外に感謝する相手は見つからないでしょう。
自分一人でできたことなんて何一つないと思えば、
周囲の全てが感謝の対象になって。
そういう前提でいくと、
全部完全に1人で成し得たことには感謝は要らず、
自分以外の何かの力の支えを受けた時に、必要になってくる。
ところが。
自分一人で成立することなんて案外少ないもので。
『誰の世話にもなっちゃいない』
と自分では思っていても、実は、何かしら、
誰かしらの関係性が、必ずどこかにあって。
『自分で稼いだ金を、自分のためだけに使って何が悪い』
と思ったら、感謝はなかなかできないけれど、
『いや、あなたがそうやって稼ぐためには、
直接稼ぎにはならない所でサポートしてくれる、
間接的な誰かがいるのでは?』
そこに気付けて初めて、感謝の対象が見つかって。
『事務だの経理だのは、利益生み出さないんだから、営業に口出しすんな』
と思ったら、なかなかそこでは感謝の関係が生まれなくて。
『あなたが営業に専念するために、
誰が事務処理や会計業務をしているのですか?
それとも、あなたが営業も事務も会計も、
全て1人でこなしていけてるのですか?』
そこをしっかり見つめ直せるかどうかが問題で。
個人的な例え話で言えば。
僕は、料理を作るのが、昔から好きです。
好みのメニューを自分で作って美味しく頂くのは、
僕にとって最上級の嬉しさであり幸運で。
でも。
僕は、自分のために料理を作ることができません。
『あ、今日は1人の食事だ』
となると、カップラーメンやコンビニ弁当、外食で済ませてしまいます。
ひどい時には、
『面倒くさいから、昼飯は別にいいや』
ってなっちゃいます。
どういうことかというと、これはあくまで僕の場合ですが、
食べてくれる家族や仲間がいてこそ、食事を作ることができます。
『僕がみなさまのために食事を作らせて頂いています、感謝』
とまで、へりくだることはありません。
そこまで立派な出来た人間ではないし。
でも、やっぱり、作る度に感じるのです。
『ああ、美味しく食べてくれる人がいるから、俺ぁ料理が作れるんだなあ』
つって。
要するに何が言いたいのかと言うと。
自分に関わる支えや保護や土台となる環境の存在と、その本当の価値に、
気付けるかどうか、というのが、運という意味での感謝だと思うのです。
慌ただしい日常や業務やなれ合いに埋没し、
“当たり前の当然の言うまでもないこと”として薄れてしまった、
『いや、それ当たり前でも当然の権利でも生まれながらのメリットでもなんでも無いよね』
という、自分にとっての協力者や、与えられた役職や、属している環境に、
フラットな姿勢で向き合って、確かにそういう存在が、自分には、ある、
と再認識する作業こそが、『感謝』ってやつになると思うのです。
『立派な人になるために、ありがとうって、言いなさい』
という、道徳教育的な意味合いとは一線を画する、
もっとビジネススタイルやライフスタイルに直接的に繋がる運の視点として、
『感謝』というキーワードの意味を、見つめ直せると、
今までと同じ自分でも、一回り運が大きくなります。
それが感謝の効能です。
僕達は、今この場所にいる以上、
全てとの関係性を断ち切って生きることはできません。
頼んだつもりはなくても誰かと関わってしまい、
どうあがいても何かしらのおかげさまに巻き込まれることになる。
僕は、どちらかと言えば独善的で、少ない味方以外は全部敵で、
誰かに恩着せがましく何かを言われることが、とても嫌いなタイプです。
にも関わらず、する必要性と必然性が確かにある。
一回り運の大きな自分になるために。
それが感謝というやつなのだと思います。
それでは☆
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