(有)西企画がお勧めする開運方法の中で、
最も代表的なものは『吉方位旅行』と『お水取り』です。
でもそれは僕達の考え方であって、
もっと他にもある選択肢を重視する方や団体、
いっぱいあると思います。
その内の1つが『お砂取り』と呼ばれるもの。
要するに、吉方位へ出かけて現地の砂を取って来る、
という方位学によるエネルギー補給。
このお砂取り、僕は昔から、あんまりやったことがありません。
というか、やろうと思ったことがありません。
運の知識を学ぶ過程で、当然、知ることになる方法だし、
また、神社に参拝する際、
『お砂取り用の砂場』
というのを見かける機会も、これまで何度もあったし。
『お砂取りってどうやるの?』
というご質問を頂いて、お答えしたことだってあったし。
でも、どういうわけか、
自分のライフスタイルに組み込もうと思ったことがない。
僕は良く知らないのですが、俗に『気学』と呼ばれる分野では、
お水取りとお砂取りはワンセットのようです。
それは、
『お水取りをやるならば、同時にお砂取りも行わねばならない』
という絶対条件的ルールではなくて、
『せっかく吉方位へ行くのだから、お水だけじゃなくお砂も頂いてこようよ』
みたいな効率性というか、
せっかくだから、という+αのオプションみたいなものに近い感覚だと思います。
まあ、上記は多分に語弊というか表現の違いがあるのは否めないし、
それとは全く異なる重要度を持ったお砂取りの考え方もきっとあるでしょうが、
少なくとも、お水とお砂は共に取らないと効果無し、というロジックは、
今の所、見たことも聴いたことありません。
そこまで特殊で限定的な縛りもない(であろう)お砂取りにも関わらず、
どうして自分は、今現在、積極的にやろうとしないのか?
色々考えてみたのですが、、、
いくつかパパっと思い浮かぶのは、
『西欽也があまりやっていなかったから』
『何となく面倒くさかったから』
『お水は飲めば良いけど、砂は後処理が手間になりそうだから』
など、消極的なものばかりで、あまり論理的な説得力はありません。
ただ。
1つ、自分の中で確固たる違和感として残っている、
お砂取りを敬遠させる理由となった記憶があって。
それが、千葉県の猿田神社の風景。
あの神社は方位学の愛好家にとっては有名な場所のようで、
お水取りの設備も、お砂取りの場所も、どちらも整っています。
お水取りの設備は境内の中に水道として、
また境内の裏の森には湧き水として、
立派なものがあります。
で、お砂取りは、その境内の裏の森の、
湧き水が出ている場所に行く途中にあって。
その光景を観た瞬間に、
『俺は、やっぱり、砂は、要らない』
と、心が先に決めてしまったこと、明確に覚えています。
そのお砂取りの場所というのが、なんと言うか、
森の肌をえぐるようにして、小さな穴がいくつもボコボコと空いていて。
その時に感じた印象を正直に言うと、
飢えた餓鬼が食べても食べても一生満足しない自分の欲を満たそうと、
神様の体をえぐり取っているように見えてしまったんですよね。
それはあくまで自分が、その時の精神状態でその場所を観て、
そう思ったというだけで、
猿田神社が悪い場所というわけではないし、
お砂取りをする愛好家を観て、嫌な印象を受けたわけではありません。
本当に一瞬の、主観的で個人的なイメージです。
その時に、水の綺麗な流れを観て感じる印象とは異なる、
明らかに異質の、“形としての欲”みたいなものを見せられた気がしました。
そしてよくよく考えてみれば。
お水取りというのは、常に溢れ流れゆく自然水を、
一時的に頂き分けてもらって飲用し、
それを更に自分の中から排出して自然へとお返しし、
浄化をしてもらって、またいつか再び頂きに行く、
という大きなサイクルの中で行われているエネルギー交換の作業です。
それに対して、お砂取りというのは、自然サイクルの循環の流れに、
少し乗りにくい、一方通行になり易い方法だと思います。
きちんと誠実にお砂取りを行っている方々は、
そこの所もきちんとクリアして、責任を持って、
自然のエネルギーを有効活用しているはず。
けれど、僕のようなカジュアルなスタンスで自然や方位を利用したいと思う人は、
安易に出先の石や木や砂を持ち帰ってしまうと、
自分の意識の及ばぬ所で循環を乱し、迷惑をかける恐れがある気がする。
そんな難しさがお砂取りにはあると思います。
もちろん、お水取りにおいてもマナーは重要だし、
時々、明らかにルール違反な行為を見かけて心かき乱されることはありますが、
常識的な感覚でお水を頂けば、何かがえぐれたり、削れたりすることなく、
上手に大自然の運行に自分の営みをアクセスさせられるはず。
上記に挙げたのは、体系化された確固たる理論ではなく、
どこかの高名な先生様から教えて頂いたお墨付きのある知識でもなく、
僕の中だけの自己責任の範囲内の感覚なので、
まだまだ研究の余地はあるし、みんなにオススメできるものではないです。
けれど、あの日観た、この世のものではないタイプのもの達の住処のような、
無数の穴でえぐれた森の地面は忘れないだろうし、
今後も、お砂取りを積極的に行うことは、ないと思います。
僕にとって、自分の実力の範囲内で行える、
吉方位におけるエネルギー補給は、いつもの定番、
★スパ(温泉)
★グルメ(土地の食べ物)
★ショッピング(自分へのお土産)
そして、それに加えて、お水取り。
講座や書籍においても、これで行こうと決めています。
長くなってしまいましたが、そんな印象と感覚が、
僕がお砂取りをしない理由なんだと、今は思っています(2011年10月現在)。
それでは☆
最も代表的なものは『吉方位旅行』と『お水取り』です。
でもそれは僕達の考え方であって、
もっと他にもある選択肢を重視する方や団体、
いっぱいあると思います。
その内の1つが『お砂取り』と呼ばれるもの。
要するに、吉方位へ出かけて現地の砂を取って来る、
という方位学によるエネルギー補給。
このお砂取り、僕は昔から、あんまりやったことがありません。
というか、やろうと思ったことがありません。
運の知識を学ぶ過程で、当然、知ることになる方法だし、
また、神社に参拝する際、
『お砂取り用の砂場』
というのを見かける機会も、これまで何度もあったし。
『お砂取りってどうやるの?』
というご質問を頂いて、お答えしたことだってあったし。
でも、どういうわけか、
自分のライフスタイルに組み込もうと思ったことがない。
僕は良く知らないのですが、俗に『気学』と呼ばれる分野では、
お水取りとお砂取りはワンセットのようです。
それは、
『お水取りをやるならば、同時にお砂取りも行わねばならない』
という絶対条件的ルールではなくて、
『せっかく吉方位へ行くのだから、お水だけじゃなくお砂も頂いてこようよ』
みたいな効率性というか、
せっかくだから、という+αのオプションみたいなものに近い感覚だと思います。
まあ、上記は多分に語弊というか表現の違いがあるのは否めないし、
それとは全く異なる重要度を持ったお砂取りの考え方もきっとあるでしょうが、
少なくとも、お水とお砂は共に取らないと効果無し、というロジックは、
今の所、見たことも聴いたことありません。
そこまで特殊で限定的な縛りもない(であろう)お砂取りにも関わらず、
どうして自分は、今現在、積極的にやろうとしないのか?
色々考えてみたのですが、、、
いくつかパパっと思い浮かぶのは、
『西欽也があまりやっていなかったから』
『何となく面倒くさかったから』
『お水は飲めば良いけど、砂は後処理が手間になりそうだから』
など、消極的なものばかりで、あまり論理的な説得力はありません。
ただ。
1つ、自分の中で確固たる違和感として残っている、
お砂取りを敬遠させる理由となった記憶があって。
それが、千葉県の猿田神社の風景。
あの神社は方位学の愛好家にとっては有名な場所のようで、
お水取りの設備も、お砂取りの場所も、どちらも整っています。
お水取りの設備は境内の中に水道として、
また境内の裏の森には湧き水として、
立派なものがあります。
で、お砂取りは、その境内の裏の森の、
湧き水が出ている場所に行く途中にあって。
その光景を観た瞬間に、
『俺は、やっぱり、砂は、要らない』
と、心が先に決めてしまったこと、明確に覚えています。
そのお砂取りの場所というのが、なんと言うか、
森の肌をえぐるようにして、小さな穴がいくつもボコボコと空いていて。
その時に感じた印象を正直に言うと、
飢えた餓鬼が食べても食べても一生満足しない自分の欲を満たそうと、
神様の体をえぐり取っているように見えてしまったんですよね。
それはあくまで自分が、その時の精神状態でその場所を観て、
そう思ったというだけで、
猿田神社が悪い場所というわけではないし、
お砂取りをする愛好家を観て、嫌な印象を受けたわけではありません。
本当に一瞬の、主観的で個人的なイメージです。
その時に、水の綺麗な流れを観て感じる印象とは異なる、
明らかに異質の、“形としての欲”みたいなものを見せられた気がしました。
そしてよくよく考えてみれば。
お水取りというのは、常に溢れ流れゆく自然水を、
一時的に頂き分けてもらって飲用し、
それを更に自分の中から排出して自然へとお返しし、
浄化をしてもらって、またいつか再び頂きに行く、
という大きなサイクルの中で行われているエネルギー交換の作業です。
それに対して、お砂取りというのは、自然サイクルの循環の流れに、
少し乗りにくい、一方通行になり易い方法だと思います。
きちんと誠実にお砂取りを行っている方々は、
そこの所もきちんとクリアして、責任を持って、
自然のエネルギーを有効活用しているはず。
けれど、僕のようなカジュアルなスタンスで自然や方位を利用したいと思う人は、
安易に出先の石や木や砂を持ち帰ってしまうと、
自分の意識の及ばぬ所で循環を乱し、迷惑をかける恐れがある気がする。
そんな難しさがお砂取りにはあると思います。
もちろん、お水取りにおいてもマナーは重要だし、
時々、明らかにルール違反な行為を見かけて心かき乱されることはありますが、
常識的な感覚でお水を頂けば、何かがえぐれたり、削れたりすることなく、
上手に大自然の運行に自分の営みをアクセスさせられるはず。
上記に挙げたのは、体系化された確固たる理論ではなく、
どこかの高名な先生様から教えて頂いたお墨付きのある知識でもなく、
僕の中だけの自己責任の範囲内の感覚なので、
まだまだ研究の余地はあるし、みんなにオススメできるものではないです。
けれど、あの日観た、この世のものではないタイプのもの達の住処のような、
無数の穴でえぐれた森の地面は忘れないだろうし、
今後も、お砂取りを積極的に行うことは、ないと思います。
僕にとって、自分の実力の範囲内で行える、
吉方位におけるエネルギー補給は、いつもの定番、
★スパ(温泉)
★グルメ(土地の食べ物)
★ショッピング(自分へのお土産)
そして、それに加えて、お水取り。
講座や書籍においても、これで行こうと決めています。
長くなってしまいましたが、そんな印象と感覚が、
僕がお砂取りをしない理由なんだと、今は思っています(2011年10月現在)。
それでは☆
コメント
コメント一覧
言われてみて、気づきました。
素敵なエネルギーですね。
ありがとうございました。
毎日blog楽しみにしていて、浜松で講座をしていただけないかと心待ちにしている私です。
そういえば、お砂取りは30センチ以上深ければ深いほど効果があると聞いたことがあります。
だから穴がぽこぽこあいてるんですよね。
ちゃんと戻しておけばいいのに…
私も何とな〜くお砂取りはやったことがありません。
お水取りは、スマートに常識範囲の中でやっているつもりですが、嫌な気分にさせる事がないように、運に嫌われないように続けていきたいです。
なこさん
コメントありがとうございます。
『なぜお砂取りをしないのか?』
と、改めてきちんと自分で自分に問うてみた時、
いつの間にか辿り着いた現時点の答えが、
今回のエントリーとなります。
emiemiさん
コメントありがとうございます。
お久しぶりでも、こうしてコメントを頂けると、
どこかで繋がっていることが分かって、
とても嬉しく安心です。
浜松での講座、機会さえあれば、
本年土中に何とか、と思っているのですが、、、
あとは上司の判断ですねえ。
何しろ、案外遠い場所なので。
お砂取りに関して。
30センチ以上、更には深ければ深いほど、
運の効果が高まるなんて考え方があったなら、
それは欲の大きさの分だけ、
大きく深い穴が開くことになりますね。
何となくそれは、美しくない気が、
やっぱりなぜか、してしまう。
でも、確かに、ちゃんと戻しておいてくれたら、
それは何というか、礼儀正しく丁寧で素敵。
結局、お水取りもお砂取りも、
そこまで儀礼的にルール満載でなくても良いから、
常識の範囲内で、自然に対する最小限の迷惑で済ませられると、
バランスが取れて美しい関係性を保てるように思います☆