小学校の時、国語テストの漢字問題で、


『みらい』


を書きなさいという問題を間違え、97点を取ったことがあります。


自分は『未来』と書いたつもりで、自信満々で100点だと思ったし、
先生から誤りを指摘されても、何のことかさっぱり分からず、
子供ながらに世の中の不可解さを、
真剣に感じた出来事だったと覚えています。


結論から言うと、


『未』


と書くべき所を、


『末』


と書いてしまっていた決定的なミス。
ほんの少し線の長さが違うだけで全く異なる漢字になるわけです。


以来、『未来』という漢字を間違えたこと、ただの1度もありません。


何なら意地になって『これでもか!』というくらい、
上の線を短く、下の線を長く書きます。


大人になって振り返ったとき、ここで1つの疑問が。


『あそこで100点を取れなかったという事実は、
自分の人生において、果たして吉なのか凶なのか?』


自覚無しに異なる漢字を書いた凡ミスという点においては、
確かに間違いなく間違えたし、
おかげで当時の自分は本当にショックでした。


けれど、実際にその結果から得られたものは、
二度と間違えないほどの明確な『未来』だったわけです。


受け止め方としては、人それぞれで、


★たかが漢字1つの小さな問題じゃん
★そもそも97点取れてれば十分でしょ
★短期的に観るか長期的に観るかの違いじゃない?
★本人がどう捉え何を得るかが大事なはず
★命を取られるわけじゃないなら問題なし


など、様々でしょう。


個々の感覚は自由。
そこに正誤はなし。


ただ、運を軸に考えた場合。


それは吉か凶かで分けられるものではなく、


『西敏央はあの時、あの場所で、
そうする必要があってそうしたし、
そうなるべくして、そうなった』


『そしてそこには、本人の人生において、
必ず何らかの意味がある』


となるわけです。


それが世に『運勢学』や『運命学』と呼ばれる、
見えない流れを読み解く方面での理解の仕方。


僕はつまり何が言いたいのかと言うと。


過去に起きた出来事に対して、吉凶という名を付けることは、
あんまり意味が無いんじゃないか、と思うのです。


なぜならそれは、誰が何と言おうと、
100%間違えなく起こった出来事で、
それ以上でも、それ以下でもない事実。


まぎれもない必然性の証。


そもそも吉凶とは、選択と実行の際の判断基準。


何を選んで何を避けるかを決めるための、
ヒントとして用いるのが基本です。


それを、すでに確定した必然性に当てはめるのはノーセンス。


自分が悩み落ち込んだあの日々が、不幸なことだなんて、誰に分かる?


病気や怪我の経験が、不必要な人生のデメリットだなんて、誰が言える?


他人からしてみたら取るに足りない小さなことや、
後から考えたら笑ってしまうほどの些細なことも、


『その時、その場の自分自身』


にとってみれば、人生に関わる非常に重要な一大事でしょう。


そんな自分の生きる道に、簡単に吉や凶のジャッジを下してくれるな。


トラブルから学び、壁を乗り越えて成長した実感、
僕たちはもう何度も味わっているはずです。


中には例外もあるでしょうが、
それでもなお、個々のレベルにおいては、
どんなこともみんな必要だし、みんな必然であると言いたい。


意味ある吉凶鑑定ならば、僕も賛成です。


けれど、過去に起きた出来事を、
吉なのか凶なのかと調べる必要はなし。


全部必要。
全部必然。


そう受け入れられたところから展開して行く未来に、
さらなる偶然の必然が待っているのだと思います。


それでは☆


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