
もしも車の運転中に、誰かの事故現場に遭遇したら、、、
『自分も運転を気をつけよう』
そう思うのが通常の感覚だと思います。
群馬で過ごしていると、特にそう感じます。
特に意識せずとも、誰に言われずとも、自然とそうなります。
・高速道路で故障中の車を見たとき
・救急車が勢い良く通り過ぎたとき
・警察官の検問に遭遇したとき
などは、自分に何の落ち度が無くとも、
『あ、こりゃ、注意しろってことだな』
と勝手に受け止め、アクセルを緩めるようにしています。
自然からの注意のメッセージを、誰かの問題を通して見せられた。
それが運の解釈です。
ただ、中には他人の事故や問題や失敗の現場に立ち会った場合、
『縁起の悪いものを見せられた!!』
と感じ、自分の運の悪さを心配する方もいるようです。
『楽しい食事中にどっかの酔っぱらいが食器を割りやがって、縁起悪いわあ』
なんて感じで。
おそらくそういう方にとってみれば、
いかにも典型的なラッキーだけが吉兆なのでしょう。
そして、そういう出来事が起こったときだけ、
嬉しい縁起や天からのメッセージを受け取るのでしょう。
『あ、きれい、虹が出てる!』
『デジタル時計が11時11分のゾロ目だ!』
『茶柱が立った!鶴が庭先に舞い降りた!100円拾った!』
そんな自分にとって都合の良い事象ならば、確かに気分良いでしょう。
前向きなハートで、自分の未来に期待できちゃうはずです。
もっと言うと。
意外な所で、予想外の、思いがけないトラブルにより、
歓迎しにくいメッセージを見せられたとき、
僕らは無意識にそれらを拒否してしまう癖があります。
生まれながらにそんな機能や感性が備わっているようです。
そりゃそうだ。
自分には関わりのない事故だの事件だのを、
見たくもないのに見せられて、素直に、
『あ、幸運のメッセージだ!』
と解釈するのは、難しくて当前。
けれど。
『虹を見る』と『事故を見る』は、
見せられることの意味は違えど、
その価値と言うか、意義のようなものは、全く同じです。
そこに優劣の差はありません。
どちらも、運を良くする上で大切な自然の象徴。
どう感じるかは個人差があるし、どんな反応をするかは自由ですが、
自然が与えてくれるヒントという点においては、
どちらもプラスであり吉ということになります。
『事故現場に遭遇した』
という話を聴いても、僕は縁起が悪いとは思いません。
『あぁ、はいはい、なるほどね』
『そりゃ、気をつけて運転しろってことです』
『そうすれば、事故に遭わなくて済みますよ』
そう解釈するからです。
少なくとも、
『あ、事故を見ちゃったんだ、それはやばいね、お気の毒』
『近い将来あなたも事故る、そういう自然からのメッセージだよ』
『見ることになった自分の運だから、どうしようもないね』
そんな受け止め方は間違っているから、やめた方が良いです。
もしも僕が縁起の悪さを感じるとしたら。
それは、
『事故現場に遭遇したけど、気にせずアクセル全開で飛ばしたわ』
なんて話を聴いたときです。
それは、ものすごく未来の暗雲を感じます。
見せられた出来事そのものに対してではなく、
その人のエネルギーの状態や感性に対して。
運勢学を根拠に考えると。
見せられたことの体裁の良し悪しで、吉凶を判断するのは危険です。
判断を間違える恐れが大きいです。
どんな出来事も、自然からのヒント。
その意味をどう活かし、どうライフスタイルに取り入れるか?
運の吉凶は、見せられた内容ではなく、その活かし方で決まります。
それでは☆
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