「その是非を論ずるのではない。
ある、ということを知るだけで良い」



上記は、運の知識と接する上で、常に僕が心がけている言葉です。


例えば。


吉方位へ行く。
凶方位へ行く。


どちらにしろ。


そうと知って自分で選び納得して行動する人と、
何も知らずに無意識のまま行動する人とでは、
吉凶の作用の出方が異なるように感じます。


吉方位と知って出かけた方が、幸運の作用に気づきやすい。
凶方位と知って出かけた方が、悪運の作用に気をつけやすい。


それが凶方位であったとしても、そうと知って出かける方が、
知らないで出かけるより良い場合があるんじゃないか、というわけです。


『知る』


ただそれだけで、そこまで人の有様は変わるのだろうか?
というか、知らないからこそ幸せであることもあるのでは?


そう疑問に思う方もいるでしょう。
大きな目で見れば、その通りだと思います。


なので、もう少し場面を限定し、具体例を挙げて考えてみると。


『今からあの曲がり角から車が飛び出してくる』


と言われれば、それを避けるのは比較的簡単です。


そこまで明確な予言でなくても、


『あの交差点は事故多発地帯』


という警告だけで十分かもしれません。


『今日の午後に素敵な電話がある』


と言われたら、万全の体制を整えて、連絡が来るのを待つでしょう。
僕だったら、トイレにまで電話を持って行くと思います。


どちらの場合も、知っているから、
準備を整えて、より丁寧に考え動くことができます。


人の知識と感覚は、密接な繋がりを持っています。


それが現実味の乏しい理屈や不自然な理論ならば、
知らない方が物事を素直に受け止められます。


小難しい御託や机上の空論を並べ立てて、
本来ならば簡単でシンプルなことを、
不必要に仰々しくアレンジするような、
そういう知識ならば、知らない方が幸せ。


余計な不安や心配を抱えなくて済むはず。


でも、それが自然に密着したリアルな智恵ならば、
学び知ることで、僕達の感性が磨かれ、
よりリラックスした心と体と魂で、
吉はもちろん、時には凶でさえも、
素敵なバランスで向き合っていくことができるようになります。


そこで冒頭の一節。

「その是非を論ずるのではない。
ある、ということを知るだけで良い」



これは『竜馬がゆく』という小説の中で、
作者である司馬遼太郎さんが、
読者に向けて書いたメッセージです。


幕末の動乱の中、若者が命を散らして世の中を動かした事実。


それが正しかったか間違っていたかは、あんまり重要なことじゃない。


今の日本はそういう歴史の上に乗っかっている、
そう知ることこそ、大切な我々の課題なんだ。


と僕は受け止めました。


運というものが、正しいかどうかだとか、
当たるとか外れるとか、必要とか不必要だとか、
そもそも、運って、あるのか、ないのか、だとか
そういうのは、それが気になる他の誰かに、
任せておけば良いだけのことで。


ましてそんなものに囚われたり、逆に過度に反発したり、
ダマされたり振り回されたり、依存したり、
不安にさせられるなんてすごく悲しいことで。


当然その心理を利用して、誰かを脅したり傷つけたりするなんて問題外で。


僕が講座や書籍、ウェブサイトやブログを通して、
なるべく多くの大切な人に伝えようとしている知識には、


・陰陽学
・五行学
・九気学
・九星学
・運勢学
・方位学
・家相学


など、色々なジャンルのものが挙げられます。
しかしその全ては、唯一無二の絶対的真理では決してありません。


『そういう考え方や判断基準もあるんだ』


と、知ってもらえたら、それで十分。


あとは、みんなが個々に、
自分の感性とライフスタイルに合わせて、


『これ、今の自分のハートに、くるな』


と感じた知識を頭の片隅に置きながら、
自分の進むべき道を自分で選んで進むのみ。


何が正しくて何が間違っているかなんて、
その答えはきっと、神様にしか分からないことでしょう。


だから。


占いはヒントにはなるかもしれないけれど、
答えでは無いんじゃないかと思うのです。


答えはいつだって始めから、自分の中に、ちゃんとある。


あとは、そこにたどり着くためのヒントとして、
ただ、運の知識がある、そのことを知れば十分。


そこから先は、自分のたどり着いた答えに自信を持って吉。


それでは☆


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